ライオンのあとで 少しだけ考察

黒柳徹子さん主演 桐山照史くん出演舞台初日を観劇した上での、ネタバレ兼一部分の考察(のための覚書)です。観劇前の方は自己責任でお願いします。


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印象的な部分。2幕。

 

 


デヌーセ「はる、きた、あめ、やまない、どろんこ、きず、かわかない、ゆめからさめた」(曖昧)

ああこの人、この人の根っこはお医者様なところ、変わらないんだなって。愛おしくて苦しくて


サラに憧れを抱き、サラの現実も目にし、その上でも「サラのことを治療できたことを誇りに思う」「1歩でも歩けるところをこの目で見届けてから戦地に行きたかった」とサラ宅を去ったはずのデヌーセ。

医者としての腕も、高い人徳も備えていた彼。

そんな彼が記憶を失くし、「普通の人」でなくなった時に発する「はる、きた、あめ、やまない、どろんこ、きず、かわかない、ゆめからさめた」

何があっても彼の根は医者だと突きつけられる。でも当の彼は、自分が医者だったことなんてきっと分からなくなっていて、ひたすら鍵編みをしてるんだ。兵隊さんの靴下と言われながらも、全く靴下の形を成していないものをただひたすら編む。(靴下の形をしていないのに誰も突っ込まないあたり、きっとリハビリ程度の作業なのだろう。)


先の言葉を発したデヌーセは、暖かい光に照らされていて、こちらが感じている悲しさなんてこれっぽっちも見えない。分からないから。それなのに「きず、かわかない」だなんて。苦しいよ。


サラもデヌーセも健常者ではないけど、サラは自分が失った「普通」を認識していながらも、現実を受け容れられずにいて、周りを振り回す。振り回して引っ掻き回して、ようやく自分の置かれた立場に気づき、理解して向き合う。
対してデヌーセは「普通でなくなった」こと自体をきっと分かっていない。分かっていないから、自分が元々持っていた記憶がないから、分かりようがないから、自分が置かれた立場を世間一般的には「不幸」と言われるだなんて思いもしないだろう。そもそもそんな思考がない、そのときの彼は。


「誰にだって演じなければならない役がある」と1幕で言ったサラ。
そんなサラが2幕で言う
「過去なんて大っきらい。過去の記憶なんて無くなればいいの。そうしたら私たちは毎日新しい役を覚える。過去にとらわれずに新しい人間として生きるの。(曖昧)」
がとても痛いほど突き刺さった。


この言葉は、爆弾の爆発により、カメラのシャッター音・光を無意識に怖がるようになってしまったデヌーセを見て発されたものだ。
言葉通りに受け取れば「デヌーセさん、過去を無かったことにできれば貴方はシャッター音を怖がらずにすむのにね」だが
裏を読むと『過去を無かったことにできれば、私自身過去の栄光を思い出すこと自体なく、もっと楽に生きられるかもしれないのに』と もしかしたら心のどこかで、いっそのこと記憶自体失くした方が楽なのに と少佐のことを少しだけ羨んでいるのかもしれないと思った。そうしたら、真新しい人間としてこの世界で生きることができるかもしれないのに、と。

 


サラのことがきっかけで、少しだけ成長した人間らしさを取り戻したデヌーセ。「あの人=サラ」のことを思い出してポロポロ単語が溢れ出てくるとき、あの声は間違いなく、1幕の、後遺症を負う前の軍医デヌーセだった。

劇後のデヌーセの人生、どうなるんだろう。
もし記憶を取り戻したら、彼は元のデヌーセに戻れるのだろうか。記憶だけ戻り、自分が何者かを認識できたとき。身体に支障があったり、世間から見放されてしまったり、ということが理解できてしまう。それは、いまのサラと同じ状態だ。
身体が戻れる状態であったとしても、何年も世間離れしていた人間・しかも職業が医者ともなると、世間が医者として再起することは不可能なのだろうか。


そんな状態になったとき、デヌーセはサラと同じように「毎日新しい役を演じられたらいいのに」と願うのか。願わないのか。

願わないといけないとしたら、彼はあのまま記憶も身体の自由も失くした状態で、坊や扱いされていたほうが、幸せなんだろうか。

 

幸せって、なんなんだろう。