桐山照史の真骨頂を見た。~舞台「アマデウス」東京公演の感想~

【がっつりネタバレあるのでご注意を】

9月24日に幕が開いた「舞台アマデウス」、早いもので池袋サンシャイン劇場での千秋楽を終え、数日。カンパニーの皆様。休日無しの16日間23公演、本当にお疲れ様でした。

ご縁があり、初日も千秋楽も(他の日も)観劇しました。初日から「きょうこそはブログ書く」と意気込みながらも、何度見ても観劇後のあの何とも言い表せない余韻に引きずられ、2週間以上経過。仕事中も、気付けば劇中の諸々の意味を考えてる日々。松本幸四郎さんが・大和田美帆さんが・舞台自体が素晴らしかったとかまだそのあたりはまとまらないので、今回は、照史くんのことだけ。

初めて複数回観劇した舞台だったので*1、よく言われていた「舞台は進化し続ける」「ナマモノ」、照史くんがよく言っていた「舞台は、手を抜いたらお客さんにバレる」の意味を身をもって知った期間になりました。それが如実に表れていたシーンと、他全体の演技について分けて話を進めます。 

さてと、取り掛かりましょう。笑

モーツァルトのラストシーン

何日経っても頭から離れない、モーツァルトのラストシーンの話をさせてください。実際に観た人にしか伝わらない可能性大。

亡くなるシーン…‟サリエーリが楽譜を破く~モーツァルトの最期”の表現が、東京公演間で、少なくとも2回変わりました。小さな変化ですが。でもその小さな1つ1つにおいて、照史くんの表現力が半端ない。この表現の仕方によって、モーツァルトが最期に大切にしていたものが全てひっくり返される(ように受け取れたん)です。「人生の終わり」は、「生き様」を印象付けるもの。それを、どのパターンも完璧に演じ切るから、「今見たもの凄すぎたけど、前回見たものは幻…?」と公演後に自分の記憶へ問いかけまくる日々でした。しんど。*2

 

というわけで、具体的に。

①初日~10/2夜まで(これがデフォルト?):
サリエーリが楽譜を破く→最後の1枚を床へ吐き出す→(中略)→コンスタンツェに寄りかかりながら、焦点がどこにも合っていない、遠くを見つめて「サリエーリだ…」→どちらかと言うと柔らかい表情を浮かべ、宙を見つめながら肘先で指揮(指・手のふくらみをメロディーに合わせて変えてた)→ご臨終

②10/3昼夜または10/4昼で変更(私が見たのが4日夜だったので):
サリエーリが楽譜を破く→最後の1枚を机へ吐き出す→机へ横になるときに机の上へ吐き出された楽譜を(無意識に)右手で掴むモーツァルト→コンスタンツェに寄りかかりながら、劇場の奥のほうを見つめて大声で「サリエーリ!!サリエーリだ!!!!」幻覚見えてる感→どちらかと言うと苦しそうな表情を浮かべ、楽譜を軽く握った手で指揮(というよりも腕を微かに上下させていた、が正解かも)→コンスタンツェ「これだけは知っておいて」が聞こえて、持っていた楽譜を最期の力を振りしぼったように握りしめ、床にその楽譜がおちる(カランと音が響き渡る会場)

③10/9東京楽公演(前日夜公演は②だったようなレポをお見かけしたので)
サリエーリが楽譜を破く→最後の1枚を床へ吐き出す→(中略*3 )→コンスタンツェ帰ってきて横になる場所確保(楽譜数枚残したまま*4 →コンスタンツェへ寄りかかる寸前に、目を・瞳孔を大きく見開き、大声で劇場の奥へ向かって「サリエーリ!!サリエーリだ!!!!!」ただただ狂気しか感じられず。→どちらかと言うと苦しそうな表情を浮かべ、時折左手でお腹を痛そうに当てながら、右腕で指揮。ただし①よりも動きは小さめで手も指も動かず、リズムも取れていない状態→ご臨終

 

文章にしてしまうと、違いが薄れてしまうのが悲しいです(語彙力のなさを恨む) 

どれが正解なんてことはなくて、その公演を観た人が、それぞれに噛み締めるものだと思っています。ただ、幸四郎さんは意図して変更されていると思うので(特に楽譜を吐き出す位置はコントロールできるはず)、どんなモーツァルト像を求めているのかを見いだせたらなぁと思わなくもなく。

 

個人的なラストシーンの解釈

個人的な解釈を挟ませていただくと、ここの表現によって「モーツァルトの最期の気持ち=希望」が全く変わって見えました。

①では、指揮をしながら幸せだった日々を回想していたのかなぁと。手・指の動きが、舞台前半でシャカリキまくっていた人物とは思えないほど、本当に繊細で儚くて。いまにもふぅっと消えてしまいそうだった(前列で見ないと伝わらない部分なところが悔しすぎ)。その雰囲気は「いま何を思ってる?幼少期の幸せな日々?奥様との思い出?輝く未来?」って想像をしてしまうほど。

でも②を見たら、①の解釈は、なんて甘かったのだろうと反省。自分の命を削って書いたレクイエムの楽譜を、現実世界で唯一信じていたサリエーリに、目の前で破られた絶望感。「生きたかった。モーツァルトの切なる希望が、鋭く突き刺さって。「もっとたくさんの音楽を書いて、たくさんの人に聞いてもらって、認めてもらいたい。お父さんにも胸を張れるような人になりたい。大好きな奥さんと子供とももっと過ごしたい。」そんな強い意思と悔しさが、最後の力を振り絞り、破かれた楽譜をぎゅっと握りしめた手の平からこぼれ落ちていく様子に詰め込まれていました。

東京楽公演の③。先ほども書きましたが、サリエーリの幻覚を叫んでいるときのモーツァルトの狂気が恐ろしくて。時代に完全に狂わされ、(天才音楽家なのに)リズムも刻めないほどに苦しんで苦しんで、苦しんだ結果疲れ果てて(奥さんは隣にいたけれど)孤独の中で死んでしまったモーツァルトでした。楽譜が机の上に残っていたことも、「誰もモーツァルトの楽譜を大事にしていない」ことが如実に表されていて、見た中で一番辛い最期でした。大事なことだから繰り返すけど、とにかく、叫んでいたとき、あの目が怖かった。

 

あきとくんのモーツァルト

あきとくんがこの舞台への出演が決まったとき。

sakurahirahira.hatenablog.com

 
「才能溢れる部分と、猥雑で破天荒な部分の両面を表現できる俳優」としてお声がかかり。まさに!という印象です。1幕では、子供っぽいところはあるけれど、明るくフランクでひょうきんで、ただただ音楽と女性(笑)が好き。お手洗い系統の下品な言葉は使うけど、言いたいことは何となく理解できてしまうせいか憎めない、ちょっとクセのある若者を。2幕では、前半とは180度変わって、作曲家の本質を突くような真面目な一面を見せたり、心身ともに病に蝕まれ酒に溺れ、破滅の人生を歩まざるを得なくなった人間を。作中に出てくるなら、絶対モーツァルト寄りの才能を持ったひと。桐山照史

ただただ俳優としての才能に脱帽しかありません。1つの場面を、先述のように、解釈が変わるほど熱演できる底力。「その回のモーツァルトの人生」を全うしているようにしか見えないの。憑依型の役者さんだとは思っていたけれど、回を重ねるごとに、モーツァルトとしての人格が形成されているように見えるし、モーツァルトとしての感情も剥き出しになっているようにも見えます。頭の先から足先・指先の動きまで、彼の中で無意識も含め計算されたモーツァルト

そのせいもあってか、公演中は舞台上にいる人を「大好きな桐山照史」として捉えられなくて、毎回毎回、モーツァルトさんを観に行った感覚しかない。「お客さんには手を抜いたら伝わるから」と毎回熱演を繰り広げるあきとくん。お芝居が本当に好きじゃなきゃあそこまでできないよたぁ。今回の役柄は、あきとくん自身の特徴的な部分を丸ごと引き出してくれて「まさに真骨頂」なお仕事。こんなに当たり役、他にあるのかな?笑

作中、他の役者さんがずっと喋ってるときでも、1回も表情に抜かりがないとこも好き。特に、フィガロの楽譜を返してもらうまでの表情の豊かさが半端ない。しかめっ面してればいい時間とかほぼないもん。左の口元~頬にかけての筋肉をピクつかせて怒りを抑えているところ、上手いなぁと思う…かっこいいです。

 

話は少し変わり、ここ好きって話を。

1幕2幕の緩急もすごいけど、音楽(ピアノ・吹奏楽・オーケストラ)をやってきた身としては、あの指揮の振り方にもキュンキュン。ちょっとやそっと習っただけじゃ、あんなに正確にオケに向かって指示できない(エアだけどさ)。

フィガロの結婚で2ndVn*5に向かって指示出すときの方向が的確すぎて、全身中の毛穴が鳥肌立った。チェンバロの鍵盤の位置も大体合っていて*6どれだけ練習したんだろう。

…指揮の話に戻ると、指揮者って曲調とかボリュームに合わせて、手の平とか指先の動き、振り出す腕の速さとかを変えるわけなのですが、完全に彼に入りこんでるよね。「作曲した人間」が一番その曲のことを理解してなきゃいけないことを理解しているのがまた泣ける。「3度高く」「ドミナント」なんて楽典的な単語が出てくるあたりも泣けて(笑)ファンには教えてくれないけれど、音楽に対して、必要最低限以上の努力をしてきたことが伺えたことも嬉しいな。

 

一番好きなシーンは、2幕で「オペラの素晴らしさ」を語る長台詞回しのとこ。まず「退屈でありま~す!」で笑いたい派。ずっと下ネタばっかりで、直前にも笑わせることを言った後の人間が、あんな真剣に「ハッキリと音を聴かせながら、それぞれの主張を表現することが作曲家の仕事じゃありません?」「神様はこのように人々の声をお聞きになっているに違いない」「聴衆を神に変える」なんて言ったら惚れるしかない…というか、自分の言葉に恍惚とした表情を浮かべているモーツァルトさん。あれ演技の域を超えて、モーツァルトの言いたいことをきちんと理解しているからこその表情で、やはりここでもあきとくんは完全に「モーツァルトを生きている」んだなぁと。

 

ちなみに一番好きなニャンニャンは、アイネクライネナハトムジークをコンスタンツェとニャッニャニャッと軽く踊るところです*7*8

 

好きなところ書きだしたらキリがないので、またの機会に。

 

おわりに

舞台初日、台の上で幸四郎さんと堂々と渡りあっていたことや、あきとくんを初めて見るであろう層のお客様がモーツァルトのシーンで思い切り笑ってくれたのを見ました。東京楽公演で、見学に来ていた2代目モーツァルトさんをいち早く見つけて、モーツァルト式のお辞儀をして盛り上げたあきとくんはエンターテイナーだし、それができるくらい自信がついているんだなと。両日とも、ファンとしてとっっっても誇りに思いました。いまとても貴重な場所に立たせてもらっているのだなぁ。とてつもない人のファンになってしまったなぁと。気が早いけれど、モーツァルトを経たあきとくんが、どんなお仕事に出会えるのか楽しみでしかありません。

いよいよ、日付が変わって10/13から大阪松竹座での公演(あきとくんにとっては凱旋公演かな?)。あきとくんの原点の地で、どんなモーツァルトの物語を紡いでくれるのか、どんな生き様を観客の心に刻みつけてくれるのか。楽しみで仕方ありません。

たくさんの人に、「あきとくんのモーツァルト」が届きますように!顔晴れ~!!!

*1:とは言っても舞台鑑賞は2作品目、初は昨年のVBBに捧げました

*2:しかも「前回ここが良かったです!」ってファンレター書いたら、その日の公演で変更が起きててその表現が無くなってるという悲劇。そんなこと書いてしまったことがもどかしすぎて「ここ変わってましたねこれこれ良かったです!」って書いたら、その日にまた戻ってるっていうもうナニコレ状態。この場を借りて言っておきます、あなたがどう演じても素晴らしい物語になるということがよーくわかりました。実力ありすぎや。すき←

*3:サリエーリが机バンバンするところで、丸めて隠していた楽譜が袖から出てきてしまうハプニングあり、机の前に転がったまま話は進みました

*4:いつも楽譜置きっぱなしでしたっけ?覚えてらっしゃる方がいたらご一報ください

*5:セカンドバイオリン

*6:トルコ行進曲でオクターブ「♪ラッシッ♯ドー」の動きは横に大きすぎるけどね!

*7:これゼロズレ?でされて死ぬかと思いました2人ともかわいすぎるもっとやれ

*8:つかぬことをお聞きしますが、小瀧くんと練習したニャンニャンは冒頭ですか?